~~動植物の命の犠牲について考える(供養)~~

宗教法人 八大龍王大自然愛信教団

南22条の市電通を藻岩山の方向にまっすぐ向かい、市電事業所の裏側を回り込むようにして藻
岩山のふもとをしばらく進むと、原生林に囲まれた白い鳥居のある建物が山際に見えてきます。

 

「馬頭」とは、読んで字の如く「切り落とされた馬の頭」のことかと思われがちですが、その言葉の本来の意味について、このお堂の
入り口上に掲げられた由来書に詳しく説明されています。「馬頭観世音の由来凡(およ)そ神の道、仏の道、動植物の道、人の道
は社会進化向上に於(おい)て不可欠の道で、之を四方と謂(い)い、之を尊敬し、これを謹行することによって社会を浄化し、真の
光明を顕現し得るものである。而(しか)るに世人は神、仏、人の三道は之を尊敬し謹行して居るも、動植物の道だけは一般に等
閑に附し、昔から動植物の諸霊を「馬頭観世音」として祀ったにも不拘(かかわらず)一般に「馬頭」とは馬の頭を祀ったものである
と誤解して居ることは誠に遺憾である。人間以外の動植物直接間接社会に貢献し、死後迄も毛、骨、肉、皮として用いられて居り、
殊に馬匹は、山野の開墾に、田畑の耕作に、或は乗馬に、荷物の運搬に、凍る冬季にも、炎暑の真夏にも、骨身を惜しまない、
その他数々の人類に貢献するところ意外に驚くばかりである。馬は諸動植物の筆頭第一位に位せる故、動植物の各霊魂は其の
旗下に集るものとして、是等諸霊を祀るために「馬頭」と云う名称を用いたるものである即ち「馬頭」とは諸動植物の長であると云う
から諸霊総称の意味を附ちたる名称である事を十分理解して貰いたい。萬物の霊長たる人間は以上諸動植物の社会人類に貢献
する事実に意を注ぎ、常に「馬頭観世音」を礼拝し、至誠至純を以って之を慰霊し成仏せしめる事が一面吾々人類の義務である事
を深慮するものである。

「なるほどー」。私も誤解していました。馬が人類社会の発展に寄与した功績は多大なものであり、すべての動植物の筆頭に位置
することから、「馬頭」という尊称をもって崇められているということだったんですね。

開拓期の人々と苦労をともにした動物たちの存在を、私たちは忘れてはなりません。

宗教法人 八大龍王大自然愛信教団 本部 馬頭観世音の由来 岩見沢市緑ヶ丘1丁目94番地

 

馬頭観世音の由来

世人は神、仏、人の三道を尊敬し、勤行しているが、動植物の道だけが一般に知られていない。したがって、昔から動植物の諸霊を
「馬頭観世音」として祀ってあるにも拘わらず一般に「馬頭」とは馬の頭を祀ったもので、馬の関係をもった者だけがお祭りするもので
あると誤解していることは実に残念なことです

人間以外の動植物が直接的間接的に社会に貢献し、死後迄も人間のために、骨、肉、皮となって用いられており、特に馬は開拓や
田畑の耕作など骨身を惜しまず献身的な労役は機械文明のさきがけとなり、その功績は馬力(ばりき)と後世に名を残した意味は
深いにもかかわらず、この諸霊祀りに気づいていないことは誠に遺憾です。

私達、人間は、動植物の命の犠牲がなければ生きていけません。即ち衣食住です。
人間は神様に肉体を借り、人格完成・魂の成長の為にこの世を旅します。その旅の間、動植物の命の
犠牲があります。神様は、人間に最低限の動植物は殺して良いと許しています。従って動植物さんは
、人間に殺されるお役目の意味を死後悟ります。しかし、命の犠牲がお役目でも、人間が好き勝手に
殺して言い訳がありません。動植物さんは、死後、殺した人間が感謝しているかどうかを視ています。

食べるのに、動物・植物の命を生・焼く・煮る・蒸すなどして動植物の命を奪い人間の肉体になり生きて
行けます。確りと感謝をして、少ないの多いの不味いの、文句ばかり言いながら食べれば命の犠牲の
意味がなくなります。逆に、動植物の霊魂が恨みと化し、人間の体調に悪玉となります。

着るものは、象牙・毛皮・寒さをしのいだりファッションの欲があります。
住んでる所も、そこにいた昆虫・植物・など多くの命が奪われています。

その他では、ペットや動物実験などもそうです。割り箸や鉛筆など森がどんどんなくなり動植物の住処
がなくなります。経済優先の為の環境破壊はまさしく命の犠牲です。日本全国で動植物の供養の儀式
が行われていますが、まだまだ供養不足で、多くの動植物が悪霊となり人間の体調に変化をもたらしま
す。個々で動植物に命の犠牲を感謝して、気持ちよく成仏してもらえるようにしましょう。


・食べること
 私達は食べることで人としての身体を維持しています。食べるとは人間以外の
動植物の生命をいただいていることです。魚やお肉、野菜や果物は全て生きてい
たもの達です。そんな大切な生命の塊である食べ物ですが、その生命を犠牲にし
てはいけせん。生命を犠牲にするとは、食べた私達のその後の行いが正しくな
いことに向かうことを指します。人の道を外れた行いをするようでは、何のために
私達のために動植物が生命を差し出してくれたのか分かりません。

動植物たちは私達が正義の道を歩くことを願って、大切な生命を食として差し出
してくれているのです。

 私が明日、社会的正義になるような行動を起こしたら、動植物の生命を供養することになります。
もしそうでなければ、動植物の生命は犠牲になってしまうのです。同じ食する行為でも人の行動によって供養と犠牲に分かれます。
食の結果を犠牲にしてはならないのです。生命を供養する気持ちで食事の後に行動したいものです。

・寸心
 人は大いなる展望と向上心を持つ必要があります。なれないと思うとそこに到達できませんし、なれると思うと少なくとも今よりはその位置に近づくことが
出来ます。展望を持つと現状とのかい離に心を悩ませることがあります。展望を持たなければ悩みはありませんから、悩むことは向上心の現れなのです。
全ての人は悩みを抱えていると思いますから、それは全ての人が向上心を持っているとも言えます。ただ克服する方法が分からないだけです。
 そんな時は心を少し開いてみると困難を乗り越えられる道が開きます。困難は人に相談することは出来ても、誰も肩代わりしてくれません。
自分で乗り越える以外に困難から逃れる方法はないのです。祈りの継続は願いに昇華してくれます。

・神様、仏様
 困った時には神様、仏様とお祈りすることがあります。普段は神仏を信仰していなくても神様、仏様になりますから心とは不思議なものです。
ところが困った時の神頼みは通用しないのです。  困った時に神様、仏様に助けてもらうためには、普段の人としての努力が必要です。試験を受けた時で解答
が分からない場合、「神様、仏様」にお願いしても解答は頭に浮かんでこないのです。何故なら、全く勉強していない分野の問題に解答しようとしても、
思い出す知識は何もないからです。  神様、仏様が助けてくれるのは、勉強して覚えたけれども試験の時に忘れてしまっている場合です。記憶していたものが
忘れていた場合、「神様、仏様」にお願いすると思いだすことがあるのです。これは努力をして一度は覚えていた知識なので思い出させてくれるのです。
 まず努力して知識を頭に入れておく。そして困った時に忘れている知識を思い出させてくれるようにお願いするのが正しいお願いのやり方です。
努力している人の下に神様、仏様は訪れてくれます。

馬頭とは、人間以外の動植物は馬に責任を持たせてある事を意味しており、
私達が幸せに生きて行く為のには、動植物のお命を奪って家に住んで、
雨つゆをしのがせて頂き、食べさせて頂いて健康な身体を作って頂き、
着るものを身にまとって保温をして頂き、命を繋げて頂いて居るのですから、
動植物一切の霊魂が馬頭観世音の元で成仏して頂けるよう、人間万物の霊長
の責任として、真心で感謝の供養をしなければなりませんが、
手を合わせるだけが供養ではなく、不断の生活の中で食べ物を粗末にしないように
心掛け実行をしなければ、いずれ病気災難心配事となって自分に返って来る
事を忘れてはなりません。

感謝の心を忘れず実行する事が動植物の成仏に繋がります。

御神示に、人間以外の動植物を殺して自由にしてよろしいとおっしゃっているのですから、
動植物を殺して衣食住にさせて頂く事が罪ではなく、感謝もなく粗末にする事が罪です。

動物は直接地を踏み、又植物は地に生えるものであり、霊魂も地に治まっていますから、
石碑も直接地上に立ててあります。

馬は体内に12ヶ月宿っており、一番長生きした馬が36歳です。

たまには動物のことも考えてみてください

山科郁男(やましないくお1926年生) 日本学術会議第16期第7部会員、生命科学の進展と社会的合意の形成特別委員会委員長、生化学研究連絡委員会委員長、京都大学名誉教授、理学博士、専門:生化学

昔も今も、人間は動物無しには生きられない。これからも多分、動物を食べ続け、皮製品を身につけることをやめないであろう。生き物が自ら生きる為に他の生き物を犠牲にすることは生き物の本性と思われ、この原理は未来永劫変わらないであろう。ヒトは約200万年前にアフリカで発生したといわれるが、長い間その数に於ても質においても低迷を続けていた。ホモハビリスではあってもホモサピエンスにはなかなかなれなかったのである。時が経てヒトは賢いヒト、すなわち、ホモサピエンスサピエンス、になり、人口も爆発的に増えはじめた。今から約1万年前のことである。それ以来今日までに人口は約1000倍に増加した。人口の急速な増大は言うまでもなく牧畜と農作のおかげである。知恵のある人間が、食するために動物を飼育し、穀物を栽培する方法を考えて十分な食糧を供給したため、人口の急速な増加がもたらされたのである。

 動物を食することでは西欧と、日本を含む東南アジアとはかなり事情を異にする。キリスト教は人間が地上の生ける物をすべて支配し、食し得るものは悉く食してよいとしている。

キリスト教発祥の地であるイスラエルほどではないにしても、ヨーロッパでは主な穀物である小麦の生産量は東南アジアの米作に比べるとその栽培効率ははるかに低く、牧草にしかならない野草で飼育した動物を食さなければ増え続ける人口を維持することが出来ない。一方、東南アジアは気候が温暖なため、食用としての植物資源は豊富で、若干の魚類で補えばとくに牧畜をしなくても食糧に不足することは無かったと思われる。とくにわが国で陸上の動物をさかんに食するようになったのは明治以降で、西欧の模倣である。むしろ、“生類憐れみの令”などで象徴されるように、動物を食するには大きな抵抗があったと思われる。仏教も、また局地的な素朴な宗教も、キリスト教と違って多神教が多く、そのような宗教を信ずる人々の間では動物はおろか、植物や、さらに、山岳信仰などに見られるように、様々な物に霊の存在を認める風習がある。このような背景のもとに自然科学が発達し、とくに医学生物学の研究に多くの動物が用いられ、なかにはかなり無神経に動物を実験に用いた例も知られるようになった。

今世紀半ばになって漸く反省の気運が生まれ、感性的にも理論的にも動物実験の是非を問う議論が盛んになってきた。理論的な支えを与えたのはオーストラリアの哲学者、ピーターシンガーといわれ、彼の著書“動物の解放”は“動物の権利”を認める運動を巻き起こしたといわれる。動物愛護団体に拠る“動物の権利”運動家は、日頃の動静は目立たないが、ひとたび動物虐待のニュースをキャッチすると、活発な運動を繰り広げ、時には過激な行動をとることもあるといわれる。  “動物の権利”を認めようとする考えの根底はもはや宗教とはかかわりが無く、専ら哲学的であるといわれる。極く大ざっぱに言えば、ヒトと動物の間には画然とした差が無く、ヒトから種々の動物へと連続的に変化していると考えているようである。同じく生命を持つ植物はどのように位置づけられているかは不明であるが、“動物の権利”運動家やこれを支える哲学者は大体において菜食主義者といわれる。 しかし、それで免罪されるのだろうか。食用になる穀物や野菜、さらには木の実などを食すると思われるが、これらの植物はどのように栽培し、あるいは採取するのだろうか。

虫(害虫)や鳥、獣などをどのようにして排除するのだろうか。これらの、われわれにとって有害と見なされる動物は、殺戮しないまでも菜食は彼らの食物を奪ってしまうことは間違い無い。動物の犠牲無しの菜食主義は不可能に近い。仮に運よく一切動物を犠牲にすること無しに食用になる植物を入手し得たとしても、“植物もまた生き物である”とすれば、ヒトは結局他の生き物を犠牲にすること無しには生存し得ないのである。

 物事はあまり極端に考えるのはよくない。牛肉を食した口で動物愛護を叫ぶことも許されよう。動物を食し、また実験にも用いる際には常に感謝と懺悔の気持を持つことが大切である。そのような基調でまとめたのが“対外報告”である。

神様を信じようが信じまいが、人間の生きる力は無です。太陽・御月様・お星様・空気・水・火・風・引力、すべて神様の力です。
どれか一つでもなくなれば人間は生きる事が出来ません。更には、動植物の命の犠牲がなくても生きて行けません。
命ある霊魂ですから、当然、感謝もなく、殺し粗末にすれば、恨みで人間に復習します。
従って、成仏してもらえるようにするのは必然です。      by syuto 慧